『教会と国家 バルメン宣言を読む』 緊急セミナーでの講演
2006年 11月 24日
「教会と国家」委員会緊急連続セミナー④
『教会と国家 バルメン宣言を読む』 徳丸町キリスト教会 朝岡 勝
はじめに
今晩は今からおよそ70年前にドイツの教会が言い表した一つの信仰の言葉を通して、地上に建てられた教会の信仰による戦いの姿勢についてともに学んでまいりたいと思います。
Ⅰ.信仰告白の事態
キリスト教信仰は、神が御自身を啓示なさったことに応答して、自らの信じるところを言い表す告白的な信仰であり、使徒信条やニカイア信条をはじめとし、宗教改革の諸信仰告白を通じて、それらの時代の中で自らの拠って立つ所を明らかにして来ました。そこには教会の内に向かって教理の基準を整えるという役割とともに、広く世に向かって自らの信仰的な決断の意思を表明するという役割があったことも忘れてはならないことです。ですから私たちが聖書に基づいてこのような信仰の言葉を学ぶということには、第一に、御言葉への信頼に基づき、その御言葉を聞き、信じ、従い、告白し続けてきた代々の教会が歴史の中で培ってきた信仰の言葉を学ぶことによって教会の信仰の基礎を踏み固めるという意義があり、第二には、このような信仰の告白の言葉が、絶えずそこに生きてきた教会が直面していた具体的な時代の状況と切り離すことのできない緊張関係の中で言い表されてきた「戦いの言葉」であったことを踏まえ、それらの時代の中に置かれた教会が、向かい合う固有な時と場という具体的な状況の中で、どのように御言葉への応答としての信仰の告白に生きたかを学ぶという意義があるのです。
「信仰告白の事態」(status confessionis, state of confessions)という言葉があります。これは主イエス・キリストをただ一人の救い主と言い表す信仰告白が脅かされ、揺るがされるような危機的な事態を指す言葉であり、しかしそのような時だからこそ、私たちが何を信じ、何によって生かされているかを明確に告白すべき決断的な事態を指す言葉です。そして昨今の私たちの国や社会の有り様を見る時に、国家による教育統制が強められ、信仰の自由を脅かす教育基本法の「改悪」や、国が再び戦争に向かう備えをなすために平和憲法を捨て去って新しい憲法を制定しようとする動きが加速化し、天皇制を中心とした全体主義的な国の在り方への傾斜が急速に強まるこの国の現在の状況もまた、私たちにとってまさしく「信仰の事態」が来ているという信仰の認識を持たせるものであるといえるのではないでしょうか。
Ⅱ.ドイツ教会闘争とバルメン宣言
第一次大戦後の混乱に乗じて登場したヒトラー率いるナチ党は、1933年1月に政権を掌握し、その後、立て続けに共産党を中心とする反対勢力を徹底的に弾圧・排除する施策を講じて、瞬く間に独裁的な政治体制を確立して行きました。当初、ナチ政府の対教会政策は一方では「われわれは、それが国家の存立を危うくせず、またゲルマン人種の美俗・道徳観に反しない限り、国内におけるすべての宗教的信仰の自由を要求する。我が党はかくのごときものとして、宗派的に一定の信仰に拘束されることなく、積極的なキリスト教精神の立場を代表する」として、体制に反しないという条件付きでの信仰の自由を保証するものでした。しかしその一方では、各州の領邦教会、ルター派、改革派、合同教会などをヒトラーの指導者原理に基づく一つの帝国教会として統合することを目論み、また帝国内の公職からユダヤ人を追放するための「アーリア条項」を定め、それを教職者に対しても適用することで次第にその真の姿を現すに至りました。そして正規の手続きを経て選出されたボーデルシュヴィンクを強権的に排除し、ドイツ・キリスト者運動の指導者であり、ヒトラーとも旧知の間柄であったルードヴィヒ・ミューラーを同年8月に初代の帝国監督として任命したのです。
これに対して組織的抵抗を試みたのが、後の告白教会闘争の中心的な役割を果たすマルチン・ニーメラーによって指導された「牧師緊急同盟」でした。実際にはナチ政権誕生以前から、すでにワイマール体制への批判と国粋主義的な主張を持つドイツ・キリスト者運動は活発化していましたが、各教派からこの牧師緊急同盟に集まった牧師たちはその後、ナチ政府とドイツ・キリスト者の運動に対して組織的な抵抗を企てていくことになるのです。そして各地で開かれた告白教会会議とそこで採択された数多くの神学的宣言の総結集として最初の全国規模の会議として招集されたのが、バルメンのゲマルケ教会を会場に1934年5月29日から31日にかけて開催された「ドイツ福音主義教会第一回告白会議」であり、そこで採択されたドイツ福音主義教会の信仰告白文が、いわゆる「バルメン宣言」でした。5月30日の会議に提出された原案は、様々な討論と提案を踏まえて修正が加えられ、翌31日の本会議において全会一致で採択されるに至ったのでした。
Ⅲ.バルメン宣言の内容
「バルメン宣言」(正式名称は「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」)は序言、六項目からなる条文、結語という三部から構成されています。そして六項目の条文はそれぞれ冒頭に聖書の御言葉が掲げられ、続いて告白すべき内容、最後に排斥すべき誤謬が示されるという一定の形式をもっています。これは古代の信条において見られる定式でもあり、ここにバルメン宣言が自らを古代の信条に連なる信仰告白文書として位置付けているという自己理解を見ることができるのです。
続いて内容を概観しておきたいと思います。まず序言において二つの点に注目したいと思います。まず第一に、この宣言が語られなければならない時代状況への認識が明らかにされているという点です。「我々は今日、この事柄に関して、ルター派、改革派、合同派各教会の肢として、共同して語り得るし、また語らねばならない。我々がそれぞれの異なった信仰告白に対して忠実でありたいと願い、またいつまでも忠実でありたいと願うゆえにこそ、我々には沈黙が許されない。それは、共通の困窮と試練の一時代の中にあって、我々は一つの共通した言葉を語らしめられると信じるからである」。このようにここには、それぞれ信仰の伝統の異なる教派に属する教会が、一致して語らなければならない緊迫した状況が来ているという緊迫した時代の認識が表れています。第二に、この宣言がどのような教会論的位置づけをもっているかが明らかにされているという点です。それはこの宣言が「ドイツ福音主義教会」の教会憲法の拘束のもとにあり、バルメンの会議に結集した教会の一致した告白として言い表されているということです。ここにおいてバルメン宣言はこの宣言に基づいて互いを御言葉の権威のもとで拘束する教会法としての位置づけを明確にしているのです。
次に六項目の条文についても概観しておきましょう。第一項ではヨハネ福音書14章6節、10章7節、9節が掲げられ、続いてこの宣言全体の基盤であり源泉である神の御言葉の絶対的な位置が明らかにされます。ここでは神の御言葉から離れた啓示の可能性が拒否され、あらゆる自然神学的な営みが斥けられています。その背景には、ドイツ民族の優位性を創造の秩序の中に認めようとする当時の啓示理解に対する反駁の意図が込められていました。第二項ではⅠコリント書1章30節が掲げられ、第一項で明らかにされた神の御言葉の慰めが、この神の支配のもとで生きるキリスト者の全生活にわたる生への要求として宣言されます。第三項ではエペソ書4章15節、16節が掲げられ、教会の本質とその所属、地上において果たすべき使命が宣言されます。ここでは第一項での神の御言葉への服従に対する応答として、御言葉によって立つ教会の本質が示されています。第四項ではマタイ福音書20章25節、26節が掲げられ、教会の職務や秩序の自律的な在り方が宣言され、他律的な支配原理の導入が斥けられます。第五項ではⅠペテロ書2章17節が掲げられ、国家の神から委ねられている務めと、教会の国家に対して果たすべき国家に対する在り方が述べられ、さらに国家と教会の相互に対する限界設定がなされています。第六項ではマタイ福音書28章20節、二テモテ書2章9節が掲げられ、教会がキリストから委託された奉仕の業について宣言されます。そこではこの奉仕の業は何よりも説教とサクラメントによるキリストへの奉仕であり、そして神の自由な恵みの使信を全ての人に伝える世界への奉仕として理解されています。そして結語の部分では以上の六つの条項において明らかにされた「承認」と「排斥」をもって告白教会共通の神学的基盤であること、この宣言が互いを拘束するものであることが確認され、「神の言葉は永遠に保つ」との言葉をもって締め括られています。
Ⅳ.第五項を巡って
以上の概観を踏まえて、今晩は特にバルメン宣言の中でも大変意義深い条項として知られる第五項、すなわち教会と国家のあり方について集中して学んでみたいと思います。そこでまず条文を見ておきましょう。「『神をおそれ、王を尊びなさい』(Ⅰペテロ2:17)。国家は、教会もその中にある、いまだ救われていないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量りに従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、正義と平和のために配慮するという課題を、神の定めによって与えられていると言うことを、聖書は我々に語る。教会は、このような神の定めの恩恵を、神に対する感謝と畏敬の中に承認する。教会は、神の国を、また神の戒めと義とを想起せしめ、そのことによって統治者と被治者との責任を想起せしめる。教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する。国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるなどというような誤った教えを、我々は斥ける。教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによって自ら国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるなどというような誤った教えを、我々は斥ける」。
①神を恐れ、王を尊べ
まず第一に注目したいのは、第五項が掲げる御言葉がペテロの手紙第一2章14節であるという事実です。古代教会以来、キリスト者あるいは教会の国家に対する関わりを論じる際に真っ先に引用されるのは、ほとんどの場合においてローマ書13章1節の「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」の箇所でした。しかし当時のドイツ・キリスト者の主張の中には、政治的権威が神によって建てられたものであるがゆえに、ナチ政権と総統ヒトラーに対する絶対的服従を求める根拠としてローマ書13章がしばしば用いられたという事実があったことから、敢えてバルメン宣言はペテロの手紙を掲げたという分析もされています。しかしペテロの手紙第一2章の文脈を辿ってみると、ここでは政治的権威が重んじられつつも、主なる神という絶対的な権威の前で相対化されていることがわかります。すなわち「旅人、寄留者」(11節)であるキリスト者が、「おとずれの日」(12節)に向かって生きるという終末論的な背景でキリスト者のこの地上における倫理的な生き方が教えられ、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」(13節)と権威一般への服従の勧めが教えられ、続いてキリスト者の基本的な態度として「あなたがたは自由人として行動しなさい」(16節)と教えられます。その上で「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛しなさい」(17節前半)との教えに続いて「神を恐れ、王を尊びなさい」(17節後半)と勧められているのです。さらにその後に続いては18節以下ではしもべたち、3章1節以下では妻たち、そして7節以下では夫たちへの教えが続き、締め括りとして3章8節に「最後に申します。あなたがたは、みな心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい」と教えられています。つまりここでは王の権威、政治的な権威に対する尊敬と服従が極めて相対化された仕方で教えられているのです。
②終末の光の下で
このことは、「神を恐れ、王を敬う」という言葉の順序において決定的な意味をもって表現されています。まず何をおいても第一に神を恐れること、そしてそのもとにあって第二のこととして王を敬うこと。これが決して覆されたり、入れ替わったりすることのない神の定めたもうた地上の権威の立つ位置なのだということ。バルメン宣言は第五項の冒頭にこの御言葉を掲げることによってキリスト者の国家に対する基本的な態度を明らかにしていきます。まずバルメン宣言は「聖書が語る」という御言葉の権威に基づいて地上の国家制度とその役割を認めています。「国家は、教会もその中にある、いまだ救われていないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量りに従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、正義と平和のために配慮するという課題を、神の定めによって与えられていると言うことを、聖書は我々に語る」。しかしこのことは無批判かつ無条件的な国家的権威の承認と服従を意味するものではありません。それはあくまでも天地万物の主なるイエス・キリストの御支配のもとにおける相対的な権威であり、なおかつ「いまだ救われていないこの世にあって」、すなわち終末の完成から見るならば未だ不完全な状態における相対的な権威なのであって、そこにおいては国家の権威は限界性、暫定性、中間性を持つものであることが主張されるのです。
その上で世にあるキリスト者、世にある教会は、バルメン宣言第二項の「他の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放」によってこの神のもとに立てられた国家とその権威に対して自由かつ主体的に奉仕するのです。この場合でも、その服従の根拠は「教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する」という確信です。これは言うまでもなくバルメン宣言第一項が「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である」と宣言して以来貫かれている確信なのです。ナチス時代のドイツにあっては、国家の制度や権威は神の創造の秩序に基づくものとして絶対化され、教会もまたそれに服従する臣民たることが要求されていました。実際教会の側からも「教会の使命は民族と血に仕えることである」というような言葉がまことしやかに語られた時代でした。そしてヒトラー率いるドイツ第三帝国を神的な権威として崇め、これに進んで服従する教会が次々に生まれていったのです。そのような中でバルメンの会議に結集した告白教会は、国家もまた終末の光の下では相対的で暫定的な権威に過ぎないことを明らかにし、教会の国家への服従は、神の御言葉に照らした枠組みにおいて、という限界を持っていることを明らかにしたのでした。
③国家権威の限界と教会の抵抗
以上のような主張を踏まえて、第五項の後段は排斥すべき教えについて次のように言っています。「国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるなどというような誤った教えを、我々は斥ける。教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによって自ら国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるなどというような誤った教えを、我々は斥ける」。ここでバルメン宣言は第二項で「われわれがイエス・キリストのものではなく、他の主のものであるような、われわれの生の領域がある」というような誤った教えを斥けると語ったことを引き継ぎながら、この主イエス・キリストの被造世界全領域にわたる支配の下で、国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序になること、また教会がその特別の委託をこえて、自ら国家の一機関となるべきことの両者を斥けているのです。このように主イエス・キリストがこの世界の主であることを信じ、告白する中に、国家もまたそのキリストの支配の下に位置づけられ、教会もまたキリストを主と信じ、告白するゆえに、その国家の権威を重んじ、これに服するのです。しかしながら、このような国家に対する服従は、国家が正しくその委託と使命を果たす時に成り立つものです。そして国家がもし仮にその委託と使命とを放棄して暴走を始め、異なる使命に生き始めようとする時、教会はこれに対して警鐘を鳴らさなければなりませんし、またそれをもっても国家が暴走を止めない場合は、教会はこれに対して明確な「否」の声を発し、これに抵抗することをしなければならない局面があります。これは宗教改革の教会が多くの苦難と忍耐を経て思想化した「抵抗権」という思想です。これもまた今日の教会が自覚的に受け取り直さなければならない重要な事柄といえるでしょう。
④国家の責務
あわせて、第五項が示す国家の役割についても考えておきたいと思います。第五項は国家が果たすべき役割について次のように言います。「人間的な洞察と人間的な能力の量りに従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、正義と平和のために配慮する」。ここには国家の使命として警察権の行使に基づいて正義と平和を維持するという考え方が見て取れます。この部分は多くの研究者たちがバルメン宣言の「限界」を指摘するところでもありますが、むしろ今日の社会において、私たちは国家の果たすべき役割を秩序維持のための役割以上の所に求めることが必要なのではないかと思います。人間が国家の秩序や権力に仕えるのではなく、国家が人間の福祉に奉仕するのであり、国家は人間を力の行使によって画一化させ、全体主義的に一人の支配者に服せしめるのではなく、人間を正義と平和と自由のための配慮によって、自分たちと異なる隣人とともに生きる豊かな生へと生かしめる。このことが「公共の秩序」が声高に強調される今日の日本の状況においても、十分に認められる必要があるのではないでしょうか。
Ⅴ.「教会と国家」を考える視点
最後に、「教会と国家」ということを考えるにあたって、バルメン宣言から教えられる視点について学んでおきたいと思います。それは先にも挙げたことですが、バルメン宣言事態が「終わり」からの視点、すなわち終末論的な視点でこれらの事柄を見据えているということです。バルメン宣言は第二項において、贖い主イエス・キリストによって「この世の神なき束縛から脱して、他の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放が与えられる」と語って、終末における神の国の完成の「すでに」の側面を洞察しながら、同時に第五項において、地上の現実が「いまだ救われていないこの世」であるとして、「いまだ」の側面をも認識しています。そしてそれらを踏まえた上で、バルメン宣言の最後の結びにおいて、「神の言葉は永遠に保つ」と宣言しているのです。一方で、国家の問題あるいは政治的な問題は極めて「この世」の事柄であり、ともすれば「世俗の問題」として教会の意識の外に出されてしまいがちなテーマです。しかし私たちはこのような差し迫った状況の中に置かれているからこそ、これらの事柄をしっかりと教会の課題、信仰告白の課題として受けとめることが必要であり、しかもその際にこれをあくまでも終末の光の下で相対化された事柄として受け取ることが必要なのではないかと思うのです。
この点で興味深い実践の例を示したいと思います。一つは日本基督教会が1958年に出した「日本基督教会信仰問答草案」の終末論に関する文章です。これは戦後に出発した日本基督教会が制定を目指して準備した草案で、結局、大会の承認を得るに至らずに終わった「幻の信仰問答」ですが、特に終末論に関する問答は今日において極めて示唆に富んだ内容が含まれていると思います。なぜなら、そこでは教会と国家の問題、権威への服従とその限界付けの問題が終末論的な視野の中で論じられているからです。ここではその第14章「終わりの日」の問答の中から一部をご紹介しておきます。
問13:終わりの日を待ち望むキリスト者は、現在どのような生活をすればよいのですか。
答:私たちはキリストが教会の主であるばかりでなく、世界と歴史の主であり給うことを確信し、教会の肢として、福音にふさわしく、愛と奉仕の生活に励むべきです。
問14:キリストが世界と歴史の主でありたもうならば、キリスト者は現実の国家秩序に対して、どのような態度をとるべきですか。
答:教会とその肢であるキリスト者は、主に対する感謝と畏敬とのうちに、国家の権威に対して服従と奉仕とをすべきです。
問15:国家の権威に服従する限界は、どこにありますか。
答:現実の国家は、完全には、神の僕になりきることができず、時には、神の敵ともなり得るものですから、私たちの服従は主にある良心と、キリストに対する服従とをさまたげられない範囲内に限ります。それゆえ、私たちは国家のどのような事態に際しても、神の言によって行動する良心の自由を失ってはなりません。また、教会は国家が神の似姿となるように祈り求めなければなりませんが、それとともに、教会は信仰の限界を越えて国家に利用される機関となることを拒否しなければなりません。
問16:国家の、教会に対する正しい態度はどうあるべきですか。
答:国家は、教会に対して、信仰の自由を保証し、福音の伝道と礼拝の自由を妨げてはなりません。なぜなら、国家の真の基礎は教会にあるからです。
問17:しかし、国家の非常な場合に、権威が要請するところに従うことなく、自分の良心の自由のみを守ろうとすることは、その秩序の中におかれたものとしての、政治的責任を回避することになりませんか。
答:いいえ、そういうさいに、終わりの日を待望しているキリスト者の、基本的な責任は、来たりつつあるキリストの王国を告げ知らせることです。それゆえ、神の言に基づく良心の自由に従って決断することは、決して責任を回避することではありません。
ここに示されたものは、教会が終末論的な認識と洞察において来るべき神の国を待ち望みつつ、この地上において果たすべき宣教の使命の動機付けとこの世に対する奉仕の基盤、また国家の教会に対する限界付けも可能にする一つの重要なありかたを私たちに教える例ということができるでしょう。
おわりに
この学びの締め括りとして、バルメン宣言第六項が掲げる第二テモテ2章9節の御言葉に聞いておきたいと思います。「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません」。この御言葉が語られている2章の文脈に目を留めてみると、獄中にある老年の使徒パウロが若き伝道者テモテに対して1節では「わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」、3節で「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください」、8節では「私の福音に言う通り、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」と続けられる命令形の中で語られていることがわかります。キリストに従う中で出会う様々な苦難の中で、しかし「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」と13節で語られる主イエス・キリストに従って歩むようにとの励ましが語られており、そのような励ましの根拠として、神のことばの自由であることが高らかに語られているのです。
私たちが置かれている現在の状況は極めて深刻と言わなければなりません。そういう認識の中でこの緊急セミナーも開かれ、またその危機感を持って皆さんもここに集っておられるわけです。そして現実には私たちの反対や抵抗の声をかき消すようにして、状況はさらに深刻な方向に加速しながら進んでいると言えるでしょう。しかしその中にただ一つだけ、そのような状況を突破するものがある。それこそが神の御言葉である。この確信を今晩ここでしっかりと受け取っておきたいと思うのです。
『教会と国家 バルメン宣言を読む』 徳丸町キリスト教会 朝岡 勝
はじめに
今晩は今からおよそ70年前にドイツの教会が言い表した一つの信仰の言葉を通して、地上に建てられた教会の信仰による戦いの姿勢についてともに学んでまいりたいと思います。
Ⅰ.信仰告白の事態
キリスト教信仰は、神が御自身を啓示なさったことに応答して、自らの信じるところを言い表す告白的な信仰であり、使徒信条やニカイア信条をはじめとし、宗教改革の諸信仰告白を通じて、それらの時代の中で自らの拠って立つ所を明らかにして来ました。そこには教会の内に向かって教理の基準を整えるという役割とともに、広く世に向かって自らの信仰的な決断の意思を表明するという役割があったことも忘れてはならないことです。ですから私たちが聖書に基づいてこのような信仰の言葉を学ぶということには、第一に、御言葉への信頼に基づき、その御言葉を聞き、信じ、従い、告白し続けてきた代々の教会が歴史の中で培ってきた信仰の言葉を学ぶことによって教会の信仰の基礎を踏み固めるという意義があり、第二には、このような信仰の告白の言葉が、絶えずそこに生きてきた教会が直面していた具体的な時代の状況と切り離すことのできない緊張関係の中で言い表されてきた「戦いの言葉」であったことを踏まえ、それらの時代の中に置かれた教会が、向かい合う固有な時と場という具体的な状況の中で、どのように御言葉への応答としての信仰の告白に生きたかを学ぶという意義があるのです。
「信仰告白の事態」(status confessionis, state of confessions)という言葉があります。これは主イエス・キリストをただ一人の救い主と言い表す信仰告白が脅かされ、揺るがされるような危機的な事態を指す言葉であり、しかしそのような時だからこそ、私たちが何を信じ、何によって生かされているかを明確に告白すべき決断的な事態を指す言葉です。そして昨今の私たちの国や社会の有り様を見る時に、国家による教育統制が強められ、信仰の自由を脅かす教育基本法の「改悪」や、国が再び戦争に向かう備えをなすために平和憲法を捨て去って新しい憲法を制定しようとする動きが加速化し、天皇制を中心とした全体主義的な国の在り方への傾斜が急速に強まるこの国の現在の状況もまた、私たちにとってまさしく「信仰の事態」が来ているという信仰の認識を持たせるものであるといえるのではないでしょうか。
Ⅱ.ドイツ教会闘争とバルメン宣言
第一次大戦後の混乱に乗じて登場したヒトラー率いるナチ党は、1933年1月に政権を掌握し、その後、立て続けに共産党を中心とする反対勢力を徹底的に弾圧・排除する施策を講じて、瞬く間に独裁的な政治体制を確立して行きました。当初、ナチ政府の対教会政策は一方では「われわれは、それが国家の存立を危うくせず、またゲルマン人種の美俗・道徳観に反しない限り、国内におけるすべての宗教的信仰の自由を要求する。我が党はかくのごときものとして、宗派的に一定の信仰に拘束されることなく、積極的なキリスト教精神の立場を代表する」として、体制に反しないという条件付きでの信仰の自由を保証するものでした。しかしその一方では、各州の領邦教会、ルター派、改革派、合同教会などをヒトラーの指導者原理に基づく一つの帝国教会として統合することを目論み、また帝国内の公職からユダヤ人を追放するための「アーリア条項」を定め、それを教職者に対しても適用することで次第にその真の姿を現すに至りました。そして正規の手続きを経て選出されたボーデルシュヴィンクを強権的に排除し、ドイツ・キリスト者運動の指導者であり、ヒトラーとも旧知の間柄であったルードヴィヒ・ミューラーを同年8月に初代の帝国監督として任命したのです。
これに対して組織的抵抗を試みたのが、後の告白教会闘争の中心的な役割を果たすマルチン・ニーメラーによって指導された「牧師緊急同盟」でした。実際にはナチ政権誕生以前から、すでにワイマール体制への批判と国粋主義的な主張を持つドイツ・キリスト者運動は活発化していましたが、各教派からこの牧師緊急同盟に集まった牧師たちはその後、ナチ政府とドイツ・キリスト者の運動に対して組織的な抵抗を企てていくことになるのです。そして各地で開かれた告白教会会議とそこで採択された数多くの神学的宣言の総結集として最初の全国規模の会議として招集されたのが、バルメンのゲマルケ教会を会場に1934年5月29日から31日にかけて開催された「ドイツ福音主義教会第一回告白会議」であり、そこで採択されたドイツ福音主義教会の信仰告白文が、いわゆる「バルメン宣言」でした。5月30日の会議に提出された原案は、様々な討論と提案を踏まえて修正が加えられ、翌31日の本会議において全会一致で採択されるに至ったのでした。
Ⅲ.バルメン宣言の内容
「バルメン宣言」(正式名称は「ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言」)は序言、六項目からなる条文、結語という三部から構成されています。そして六項目の条文はそれぞれ冒頭に聖書の御言葉が掲げられ、続いて告白すべき内容、最後に排斥すべき誤謬が示されるという一定の形式をもっています。これは古代の信条において見られる定式でもあり、ここにバルメン宣言が自らを古代の信条に連なる信仰告白文書として位置付けているという自己理解を見ることができるのです。
続いて内容を概観しておきたいと思います。まず序言において二つの点に注目したいと思います。まず第一に、この宣言が語られなければならない時代状況への認識が明らかにされているという点です。「我々は今日、この事柄に関して、ルター派、改革派、合同派各教会の肢として、共同して語り得るし、また語らねばならない。我々がそれぞれの異なった信仰告白に対して忠実でありたいと願い、またいつまでも忠実でありたいと願うゆえにこそ、我々には沈黙が許されない。それは、共通の困窮と試練の一時代の中にあって、我々は一つの共通した言葉を語らしめられると信じるからである」。このようにここには、それぞれ信仰の伝統の異なる教派に属する教会が、一致して語らなければならない緊迫した状況が来ているという緊迫した時代の認識が表れています。第二に、この宣言がどのような教会論的位置づけをもっているかが明らかにされているという点です。それはこの宣言が「ドイツ福音主義教会」の教会憲法の拘束のもとにあり、バルメンの会議に結集した教会の一致した告白として言い表されているということです。ここにおいてバルメン宣言はこの宣言に基づいて互いを御言葉の権威のもとで拘束する教会法としての位置づけを明確にしているのです。
次に六項目の条文についても概観しておきましょう。第一項ではヨハネ福音書14章6節、10章7節、9節が掲げられ、続いてこの宣言全体の基盤であり源泉である神の御言葉の絶対的な位置が明らかにされます。ここでは神の御言葉から離れた啓示の可能性が拒否され、あらゆる自然神学的な営みが斥けられています。その背景には、ドイツ民族の優位性を創造の秩序の中に認めようとする当時の啓示理解に対する反駁の意図が込められていました。第二項ではⅠコリント書1章30節が掲げられ、第一項で明らかにされた神の御言葉の慰めが、この神の支配のもとで生きるキリスト者の全生活にわたる生への要求として宣言されます。第三項ではエペソ書4章15節、16節が掲げられ、教会の本質とその所属、地上において果たすべき使命が宣言されます。ここでは第一項での神の御言葉への服従に対する応答として、御言葉によって立つ教会の本質が示されています。第四項ではマタイ福音書20章25節、26節が掲げられ、教会の職務や秩序の自律的な在り方が宣言され、他律的な支配原理の導入が斥けられます。第五項ではⅠペテロ書2章17節が掲げられ、国家の神から委ねられている務めと、教会の国家に対して果たすべき国家に対する在り方が述べられ、さらに国家と教会の相互に対する限界設定がなされています。第六項ではマタイ福音書28章20節、二テモテ書2章9節が掲げられ、教会がキリストから委託された奉仕の業について宣言されます。そこではこの奉仕の業は何よりも説教とサクラメントによるキリストへの奉仕であり、そして神の自由な恵みの使信を全ての人に伝える世界への奉仕として理解されています。そして結語の部分では以上の六つの条項において明らかにされた「承認」と「排斥」をもって告白教会共通の神学的基盤であること、この宣言が互いを拘束するものであることが確認され、「神の言葉は永遠に保つ」との言葉をもって締め括られています。
Ⅳ.第五項を巡って
以上の概観を踏まえて、今晩は特にバルメン宣言の中でも大変意義深い条項として知られる第五項、すなわち教会と国家のあり方について集中して学んでみたいと思います。そこでまず条文を見ておきましょう。「『神をおそれ、王を尊びなさい』(Ⅰペテロ2:17)。国家は、教会もその中にある、いまだ救われていないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量りに従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、正義と平和のために配慮するという課題を、神の定めによって与えられていると言うことを、聖書は我々に語る。教会は、このような神の定めの恩恵を、神に対する感謝と畏敬の中に承認する。教会は、神の国を、また神の戒めと義とを想起せしめ、そのことによって統治者と被治者との責任を想起せしめる。教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する。国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるなどというような誤った教えを、我々は斥ける。教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによって自ら国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるなどというような誤った教えを、我々は斥ける」。
①神を恐れ、王を尊べ
まず第一に注目したいのは、第五項が掲げる御言葉がペテロの手紙第一2章14節であるという事実です。古代教会以来、キリスト者あるいは教会の国家に対する関わりを論じる際に真っ先に引用されるのは、ほとんどの場合においてローマ書13章1節の「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです」の箇所でした。しかし当時のドイツ・キリスト者の主張の中には、政治的権威が神によって建てられたものであるがゆえに、ナチ政権と総統ヒトラーに対する絶対的服従を求める根拠としてローマ書13章がしばしば用いられたという事実があったことから、敢えてバルメン宣言はペテロの手紙を掲げたという分析もされています。しかしペテロの手紙第一2章の文脈を辿ってみると、ここでは政治的権威が重んじられつつも、主なる神という絶対的な権威の前で相対化されていることがわかります。すなわち「旅人、寄留者」(11節)であるキリスト者が、「おとずれの日」(12節)に向かって生きるという終末論的な背景でキリスト者のこの地上における倫理的な生き方が教えられ、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」(13節)と権威一般への服従の勧めが教えられ、続いてキリスト者の基本的な態度として「あなたがたは自由人として行動しなさい」(16節)と教えられます。その上で「すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛しなさい」(17節前半)との教えに続いて「神を恐れ、王を尊びなさい」(17節後半)と勧められているのです。さらにその後に続いては18節以下ではしもべたち、3章1節以下では妻たち、そして7節以下では夫たちへの教えが続き、締め括りとして3章8節に「最後に申します。あなたがたは、みな心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい」と教えられています。つまりここでは王の権威、政治的な権威に対する尊敬と服従が極めて相対化された仕方で教えられているのです。
②終末の光の下で
このことは、「神を恐れ、王を敬う」という言葉の順序において決定的な意味をもって表現されています。まず何をおいても第一に神を恐れること、そしてそのもとにあって第二のこととして王を敬うこと。これが決して覆されたり、入れ替わったりすることのない神の定めたもうた地上の権威の立つ位置なのだということ。バルメン宣言は第五項の冒頭にこの御言葉を掲げることによってキリスト者の国家に対する基本的な態度を明らかにしていきます。まずバルメン宣言は「聖書が語る」という御言葉の権威に基づいて地上の国家制度とその役割を認めています。「国家は、教会もその中にある、いまだ救われていないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量りに従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、正義と平和のために配慮するという課題を、神の定めによって与えられていると言うことを、聖書は我々に語る」。しかしこのことは無批判かつ無条件的な国家的権威の承認と服従を意味するものではありません。それはあくまでも天地万物の主なるイエス・キリストの御支配のもとにおける相対的な権威であり、なおかつ「いまだ救われていないこの世にあって」、すなわち終末の完成から見るならば未だ不完全な状態における相対的な権威なのであって、そこにおいては国家の権威は限界性、暫定性、中間性を持つものであることが主張されるのです。
その上で世にあるキリスト者、世にある教会は、バルメン宣言第二項の「他の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放」によってこの神のもとに立てられた国家とその権威に対して自由かつ主体的に奉仕するのです。この場合でも、その服従の根拠は「教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する」という確信です。これは言うまでもなくバルメン宣言第一項が「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である」と宣言して以来貫かれている確信なのです。ナチス時代のドイツにあっては、国家の制度や権威は神の創造の秩序に基づくものとして絶対化され、教会もまたそれに服従する臣民たることが要求されていました。実際教会の側からも「教会の使命は民族と血に仕えることである」というような言葉がまことしやかに語られた時代でした。そしてヒトラー率いるドイツ第三帝国を神的な権威として崇め、これに進んで服従する教会が次々に生まれていったのです。そのような中でバルメンの会議に結集した告白教会は、国家もまた終末の光の下では相対的で暫定的な権威に過ぎないことを明らかにし、教会の国家への服従は、神の御言葉に照らした枠組みにおいて、という限界を持っていることを明らかにしたのでした。
③国家権威の限界と教会の抵抗
以上のような主張を踏まえて、第五項の後段は排斥すべき教えについて次のように言っています。「国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるなどというような誤った教えを、我々は斥ける。教会がその特別の委託をこえて、国家的性格、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによって自ら国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるなどというような誤った教えを、我々は斥ける」。ここでバルメン宣言は第二項で「われわれがイエス・キリストのものではなく、他の主のものであるような、われわれの生の領域がある」というような誤った教えを斥けると語ったことを引き継ぎながら、この主イエス・キリストの被造世界全領域にわたる支配の下で、国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序になること、また教会がその特別の委託をこえて、自ら国家の一機関となるべきことの両者を斥けているのです。このように主イエス・キリストがこの世界の主であることを信じ、告白する中に、国家もまたそのキリストの支配の下に位置づけられ、教会もまたキリストを主と信じ、告白するゆえに、その国家の権威を重んじ、これに服するのです。しかしながら、このような国家に対する服従は、国家が正しくその委託と使命を果たす時に成り立つものです。そして国家がもし仮にその委託と使命とを放棄して暴走を始め、異なる使命に生き始めようとする時、教会はこれに対して警鐘を鳴らさなければなりませんし、またそれをもっても国家が暴走を止めない場合は、教会はこれに対して明確な「否」の声を発し、これに抵抗することをしなければならない局面があります。これは宗教改革の教会が多くの苦難と忍耐を経て思想化した「抵抗権」という思想です。これもまた今日の教会が自覚的に受け取り直さなければならない重要な事柄といえるでしょう。
④国家の責務
あわせて、第五項が示す国家の役割についても考えておきたいと思います。第五項は国家が果たすべき役割について次のように言います。「人間的な洞察と人間的な能力の量りに従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、正義と平和のために配慮する」。ここには国家の使命として警察権の行使に基づいて正義と平和を維持するという考え方が見て取れます。この部分は多くの研究者たちがバルメン宣言の「限界」を指摘するところでもありますが、むしろ今日の社会において、私たちは国家の果たすべき役割を秩序維持のための役割以上の所に求めることが必要なのではないかと思います。人間が国家の秩序や権力に仕えるのではなく、国家が人間の福祉に奉仕するのであり、国家は人間を力の行使によって画一化させ、全体主義的に一人の支配者に服せしめるのではなく、人間を正義と平和と自由のための配慮によって、自分たちと異なる隣人とともに生きる豊かな生へと生かしめる。このことが「公共の秩序」が声高に強調される今日の日本の状況においても、十分に認められる必要があるのではないでしょうか。
Ⅴ.「教会と国家」を考える視点
最後に、「教会と国家」ということを考えるにあたって、バルメン宣言から教えられる視点について学んでおきたいと思います。それは先にも挙げたことですが、バルメン宣言事態が「終わり」からの視点、すなわち終末論的な視点でこれらの事柄を見据えているということです。バルメン宣言は第二項において、贖い主イエス・キリストによって「この世の神なき束縛から脱して、他の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放が与えられる」と語って、終末における神の国の完成の「すでに」の側面を洞察しながら、同時に第五項において、地上の現実が「いまだ救われていないこの世」であるとして、「いまだ」の側面をも認識しています。そしてそれらを踏まえた上で、バルメン宣言の最後の結びにおいて、「神の言葉は永遠に保つ」と宣言しているのです。一方で、国家の問題あるいは政治的な問題は極めて「この世」の事柄であり、ともすれば「世俗の問題」として教会の意識の外に出されてしまいがちなテーマです。しかし私たちはこのような差し迫った状況の中に置かれているからこそ、これらの事柄をしっかりと教会の課題、信仰告白の課題として受けとめることが必要であり、しかもその際にこれをあくまでも終末の光の下で相対化された事柄として受け取ることが必要なのではないかと思うのです。
この点で興味深い実践の例を示したいと思います。一つは日本基督教会が1958年に出した「日本基督教会信仰問答草案」の終末論に関する文章です。これは戦後に出発した日本基督教会が制定を目指して準備した草案で、結局、大会の承認を得るに至らずに終わった「幻の信仰問答」ですが、特に終末論に関する問答は今日において極めて示唆に富んだ内容が含まれていると思います。なぜなら、そこでは教会と国家の問題、権威への服従とその限界付けの問題が終末論的な視野の中で論じられているからです。ここではその第14章「終わりの日」の問答の中から一部をご紹介しておきます。
問13:終わりの日を待ち望むキリスト者は、現在どのような生活をすればよいのですか。
答:私たちはキリストが教会の主であるばかりでなく、世界と歴史の主であり給うことを確信し、教会の肢として、福音にふさわしく、愛と奉仕の生活に励むべきです。
問14:キリストが世界と歴史の主でありたもうならば、キリスト者は現実の国家秩序に対して、どのような態度をとるべきですか。
答:教会とその肢であるキリスト者は、主に対する感謝と畏敬とのうちに、国家の権威に対して服従と奉仕とをすべきです。
問15:国家の権威に服従する限界は、どこにありますか。
答:現実の国家は、完全には、神の僕になりきることができず、時には、神の敵ともなり得るものですから、私たちの服従は主にある良心と、キリストに対する服従とをさまたげられない範囲内に限ります。それゆえ、私たちは国家のどのような事態に際しても、神の言によって行動する良心の自由を失ってはなりません。また、教会は国家が神の似姿となるように祈り求めなければなりませんが、それとともに、教会は信仰の限界を越えて国家に利用される機関となることを拒否しなければなりません。
問16:国家の、教会に対する正しい態度はどうあるべきですか。
答:国家は、教会に対して、信仰の自由を保証し、福音の伝道と礼拝の自由を妨げてはなりません。なぜなら、国家の真の基礎は教会にあるからです。
問17:しかし、国家の非常な場合に、権威が要請するところに従うことなく、自分の良心の自由のみを守ろうとすることは、その秩序の中におかれたものとしての、政治的責任を回避することになりませんか。
答:いいえ、そういうさいに、終わりの日を待望しているキリスト者の、基本的な責任は、来たりつつあるキリストの王国を告げ知らせることです。それゆえ、神の言に基づく良心の自由に従って決断することは、決して責任を回避することではありません。
ここに示されたものは、教会が終末論的な認識と洞察において来るべき神の国を待ち望みつつ、この地上において果たすべき宣教の使命の動機付けとこの世に対する奉仕の基盤、また国家の教会に対する限界付けも可能にする一つの重要なありかたを私たちに教える例ということができるでしょう。
おわりに
この学びの締め括りとして、バルメン宣言第六項が掲げる第二テモテ2章9節の御言葉に聞いておきたいと思います。「私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません」。この御言葉が語られている2章の文脈に目を留めてみると、獄中にある老年の使徒パウロが若き伝道者テモテに対して1節では「わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい」、3節で「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください」、8節では「私の福音に言う通り、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストをいつも思っていなさい」と続けられる命令形の中で語られていることがわかります。キリストに従う中で出会う様々な苦難の中で、しかし「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である」と13節で語られる主イエス・キリストに従って歩むようにとの励ましが語られており、そのような励ましの根拠として、神のことばの自由であることが高らかに語られているのです。
私たちが置かれている現在の状況は極めて深刻と言わなければなりません。そういう認識の中でこの緊急セミナーも開かれ、またその危機感を持って皆さんもここに集っておられるわけです。そして現実には私たちの反対や抵抗の声をかき消すようにして、状況はさらに深刻な方向に加速しながら進んでいると言えるでしょう。しかしその中にただ一つだけ、そのような状況を突破するものがある。それこそが神の御言葉である。この確信を今晩ここでしっかりと受け取っておきたいと思うのです。
by churchandtate
| 2006-11-24 09:00
| 説教・講演